2009年2月25日水曜日

CR宇宙戦艦ヤマト2

最近「CR宇宙戦艦ヤマト2」のCMがテレビで流れていますね。
ガンダムマニアの土田晃之氏や「jogjog」でおなじみの山本梓さんに混じって、映画監督の井筒和幸氏も出ています。
この井筒監督は何を考えてこのCMに出たんでしょう?
「宇宙戦艦ヤマト」に流れている思想と井筒監督の思想は全く相容れないものだと思いますが?

井筒監督は「平和憲法」大好き。(「平和憲法」とカッコ付で書いたのは私はこの憲法が決して「平和」を維持できる憲法だとは思っていないからです)
○○半島大好き。
『憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本』の「2章 井筒監督の教えたるわ! 歴史と憲法」で氏は次のように書いています。

「だから拉致というのは政治的には捕虜なんです。両方平和な国だったのが、ある日突然向こうの勝手で連れて行かれた、そんな簡単な話じゃない。韓国と北朝鮮の戦いのなかの一つの戦略なわけです。北朝鮮の人間に日本語教育して韓国に送りこもうとする、そのために日本人を連れてくる。北朝鮮は、そういうえらいことをしてしまった。」

はぁ~??? です。

病に冒されながら、家族を失いながら、地球を守ろうとした沖田艦長。
愛する人を、地球を、守るために戦って散っていったヤマト乗組員。
愛するガミラスを守るために戦い、散っていったデスラー。
愛する雪とともにヤマト艦内に残り、白色彗星にむかっていった古代進。
その姿に涙した私たち。

きっと井筒監督には理解できないでしょう。

それでもCM出演料を稼いで、次の反日映画を作りたいのでしょうか?

2009年2月21日土曜日

携帯遍歴(その2)D503i


2台目の携帯電話です。
iがつきました。
初めてのiモード携帯です。

ちょうど宮城県から函館に戻ってきたタイミングでの機種変更でした。
当時はNTTドコモはいくつかの地域会社に分かれていました。
宮城県時代は当然NTTドコモ東北での契約でした。
そのままの番号で函館で機種変更したのですが、「iMenu」を表示させてみると、「北海道メニュー」ではなく「東北メニュー」になっていました。
北海道で代えたので関係ないのかと思っていたんですが、契約が(携帯電話番号も)NTTドコモ東北のままだったので駄目なんですね。
今ならMNPで他社でも電話番号は変わらないのですが、NTTドコモ同士でも融通が利かなかったんです。
というわけで、宮城時代の電話番号を捨てて、新しい番号になりました。

前のNM207はスライドカバー型でしたが、このD503iはフリップ型です。
折りたたみ型はあまり好きじゃないけど、ボタンむき出しというのも誤動作が不安で、どうしてもボタンをカバーするタイプを選んでしまいました。
フリップを開けて通話、閉じて終話というスタイルです。

D503iの赤もいい色だったのですが、妻に「似合わない!」と言われて、無難なシルバーになりました。


実は、前のNM207の後継iモード携帯であるNM502iも候補に挙がっていたんですが、液晶がカラーではなかったので残念ながら諦めました。
当時のノキア(NM)のデザインは秀逸だったんですが、どうしてもドコモの規格についていけない(いかない?)部分があったのが残念です。

2009年2月16日月曜日

遺すということ

昨2月15日に弥生小学校の閉校式典が行われたそうです。
函館では人口減少、児童生徒数の減少、そして人口の移動に伴い、とくに西部地区では小中学校の統廃合が行われています。
私の母校も、幼稚園から中学校まですべて統合されてしまいました。
妹なんかは幼稚園から小中高、短大、最初の就職先まですべてなくなってしまいました。

学校の統廃合で必ず問題になるのが、新校舎をどうするかということです。
弥生小学校でも、西部地区にある歴史のある校舎ということで、その取り壊しについて様々な論議がされています。

弥生小学校の校舎が、歴史を感じさせる重厚なデザインの校舎で、歴史的建造物として大変意義のあるものであることは十分承知しているつもりです。
卒業生にとってもとても思い出のある校舎であることは間違いないでしょう。

でもあえて言わせてもらいます。
私は校舎取り壊し、新校舎の建設に賛成です。

どんなに意義のある建物でも、冬には雪が吹き込み、廊下がアイスリンクのようになってしまう校舎は、子供たちの学習の場としていかがなものでしょう?
確かに歴史的建造物を遺すためにお金をかけて修復すれば、それなりに子供たちの環境は改善できるかもしれません。
でも、新しい小学校の誕生に合わせて、子供たちのために新しい校舎を用意することの方が「学校」としての役割を果たすために大事なことではないでしょうか。

函館では何かを壊そうとする度に、「歴史的建造物を守ろう」という声が上がります。
旧東川小学校の跡地の脇や護国神社の下に大きな看板が未だに残っているのを見た人もいると思います。
函館どっくのクレーンについても同様です。

しかし、何でもかんでも古いものを遺そうとするよりは、いったん区切りをつけて、それまでの歴史を踏まえて、新たな歴史の一歩を踏み出す勇気も必要なのではないでしょうか?
あるいは自らにこれからの函誰の歴史を作り出すことなどできないと諦めて、古いものにすがりついているのでしょうか?

弥生小学校の校舎が本当に歴史的意義があり遺さなければならないものだとしたら、どうして今まで適切な改修の要望を出してこなかったのでしょうか?

壊れそうになってから慌てて遺そうとする。
…それじゃどこかの夫婦みたいじゃないですか(笑)

子供たちのために最新の設備のきれいな校舎を建ててあげましょうよ。

2009年2月14日土曜日

携帯遍歴(その1) NM207


前回の「機種変更」のエントリーでは、何人かの方が"N-04A"の検索から覗きに来てくれていたようです。
ありがとうございます。そして、ごめんなさい
期待していた情報がありませんでしたよね。
私のブログなんてそんなものです。
というわけで(?)、今回は私の初めての携帯 NM207 の紹介です。
"NM207i"ではありません。"NM207"なんです。
iモードなんてなかった頃です。
買ったのも「通販」です。
この頃はDoCoMo(今はdocomoですね)がどんどん携帯電話をばらまいて勢力拡大しようとしていた頃なので、通販で携帯電話本体がただ同然で手に入りました。
そういえば、よく、あの悪名高い「ネク○ーズ」から「懸賞の特賞には惜しくも外れましたが、1等賞として携帯電話を差し上げます」とか「Wowowの受信機を差し上げます」なんて電話がよくかかってきてました。
話はNM207に戻って、
ご覧の通り、ダイヤルボタンにスライド式のカバーがついていて、着信があったときはこのカバーを開けると通話でき、閉めると終話という動作でした。
この動作がその後も私の携帯電話の使い勝手の基準になってます。(唯一の例外がpremini-IIです)
そして、iモードがまだないということは、メールもできません。着メロもダウンロードできません。
メールは、ショートメールでした。
着メロは、どんなメロディを内蔵しているかが各機種のセールスポイントでした。
私はNM207では「エリーゼのために」を選んでいました。
今から見ると機能は少ないですが、デザインはいちばん大好きな機種でした。
次のD503iへの機種変更の時に回収されてしまったのが、今でも悔やまれます。

2009年2月11日水曜日

機種変更

1年10ヶ月ぶりに携帯を機種変更しました。
docomo SMARTシリーズのN-04Aです。
この機種を選んだ決め手は、スライド式と本体の薄さです。
今のシリーズではタッチパネルなど機能満載の機種もあって、目新しい物好きの私にとっては触手ものびたのですが、仕事で持ち歩くには薄いのがいちばんです。

今まで使っていたD903iはFMトランスミッター内蔵のミュージックプレーヤーとして余生を送ってもらいます。

ちなみに今までの携帯歴は

NM207
D503i

SH505iS

SO506i(premini-II)

D903i

N-04A

でした。
こうやってみてみると、6機種中5機種がメインディスプレイが表に出ているタイプです。

約2年ぶりの機種変更となると、新しい機能やサービスが増えていて、まだ使いこなせていません。
これからも、面白い発見があればここで紹介していきたいと思います。

技術屋ですから…

2009年2月4日水曜日

5年で…



この度バージョンアップされたGoogle Earth 5 で、過去の画像を表示できるようになりました。
(といっても、日本はそれほど遡ることはできないんですが…)

試しに函館大門の画像を見てみました。
上が、平成14年12月9日の大門です。
下が、平成19年5月23日の大門です。
(クリックすると大きく見られます)

影のせいで見づらいですが、明らかに空き地が増えています。
寂しい限りです。
夜バージンの画像があればもっと違いがはっきりするんでしょうね。

2009年2月2日月曜日

久しぶりに

(今日は今まででいちばんつまらない内容です。興味のない方は今すぐ閉じてください)


































大切な人を失いそうです。
その人を簡単に言い表すことなんてできませんが、土俵の俵のような存在なのかなとも思います。
「そこで踏ん張りなさい」と力を貸してくれたり、
「そこから外に出ちゃ駄目だよ」と境界を教えてくれたり、
私にとっていちばんの味方でした。

私はこのブログでも、実生活でも、周りに毒を吐きまくってきました。
それが私にとって「正論」という筋を通す表現方法でした。
支えてくれる人のいない私は、身体の中心に「正論」という筋を1本通しておかないと立っていられないのです。
そんな私のそばに唯一居てくれたのがその人です。

いちばんの味方、いちばん側にいてもらいたい人にまで毒を吐いてしまったのが私です。
悪いのは私なんです。
私がどうしようもない馬鹿なんです。

こんな馬鹿の側にいてもらったって、また傷つけてしまうだけ…

でも…

そんなことを考えていたら、久しぶりに涙なんか流してしまいました。
「嗚咽」なんて何年ぶりでしょうか。

こんなこと、ここに書くべきことじゃないのだと思います。
ただ、頭と心の整理をして、自分を見つめ直したいんです。
俵がなく、ただ線を引いただけの土俵に上がらなければならない日のために…



ここまで読んだ人はいないと思いますが、もし読んでいただけたのなら、お目汚し申し訳ありません。m(__)m

2009年2月1日日曜日

土俵

初場所も終わって1週間経ってしまいましたが、相撲ネタで…
といっても、ガッツポーズ問題や大麻問題じゃありません。

もし、あの土俵がすぐに崩れてしまいそうなものだったり、俵がきちんと埋められていなくてぐらぐらしていたら、力士は思いっきり相撲を取れないのでしょうね。
「徳俵に足がかかってから底力を発揮する力士」っていわれる人もいますよね。(しこ名は思い浮かばないけど^^;)

ふとそんなことを考えてしまいました。

ただ私が子供の頃は、そんな立派な土俵じゃなくて、ただ線を引いただけの土俵で相撲を取って遊んでいたんですよね。

また、何を書いているのかよくわからなくなっちゃいました。
いいんです、「他人の土俵では相撲を取らない」技術屋ですから…